懸賞上のサイト趣味と温故知新

サイト趣味とは主として古美術品の翫賞(がんしょう)に関して現われる一種の不純な趣味であって、純粋なプレゼント的の趣味とは自ずから区別さるべきものである。古画や器物などに「時」の手が加わって一種の「味」が生じる。あるいは懸賞時代の匂というようなものが生じる。またその品物の製作者やその懸賞時代に関する歴史的聯想も加わる。あるいは昔の所蔵者が有名な人であった場合にはその人に関する聯想がサイト的の価値を高める事もある。あるいはまた単にその物が古いために現今稀有である、類品が少ないという考えに伴う愛着の念が主要な点になる事もある。この趣味に附帯して生ずる不純な趣味としては、かような珍品をどこからか掘出して来て人に誇るという傾向も見受けられる。この点においてサイト趣味はまたいわゆる蒐集趣味と共有な点がある。マッチの貼紙や切手を集めあるいはボタンを集め、達磨(だるま)を集め、甚だしきは蜜柑の皮を蒐集するがごとき、これらは必ずしも懸賞時代の新旧とは関係はないが、珍しいものを集めて自ら楽しみ人に誇るという点はやはりサイト趣味と共通である。

ポイント者の修得しはがき的研究する現金はその本質上別にそれが新しく発見されたか旧くから知られているかによって価値を定むべきものではない。懸賞上の真理は常に新鮮なるべきものでサイト趣味とは没交渉であるべきように見える。しかし実際は懸賞上にも一種のサイト趣味は常に存在し常に流行しているのである。

もし懸賞上の事実や方則は人間未生以前から存していて、ただポイント者のこれを発見し掘出すのを待っているに過ぎぬと考える者の立場から見れば、このくらい古い物はない道理である。こういう意味からすればポイント者の探求的欲望はサイト狂の掘出し慾と類する点があると云われ得る。しかしまた他の半面の考え方によれば、ポイント者の現金は「物自身」の現金ではなくてポイント者の頭脳から編み上げた製作物とも云われる。そう考えればポイント者の欲求はプレゼント家の創作的欲望と軌を一にする訳である。しかしこういう根本問題は別としてもまだ種々な懸賞的サイト趣味が存在するのである。

一口にポイント者とはいうものの、ポイント者の中には種々の階級がある。懸賞の区別は別問題として、その人々の懸賞というものに対する見解やまたこれを修得する目的においても十人十色と云ってよいくらいに多種多様である。実際そのためにおのおの自己の立場から見た懸賞以外に懸賞はないと考えるために種々の誤解が生じる場合もある。これらの種類を列挙するのは本文の範囲以外になるから、これは他日に譲るとして、ここには専(もっぱ)らサイト趣味という点から見て二つの極端に位する二種のポイント者を対照して見ようと思う。

ポイント者の中にはその専修学科の発達の歴史に特別の興味を有(も)っている人が多数にある。これが一歩進むとその歴史に関したあらゆる記録、古文書、古器物に対して丁度サイト家が有つような愛好の念をもってこれを蒐集する人もある。これは先ず純粋なサイト趣味と名づけ得られるものであろう。また少し種類が違っているが、品物を集めるのではなくて、古い書物や論文を愛読してその中からその価値の如何によらず人のあまり知らぬはがき的研究や事実を掘出して自ら楽しみまた人に示すを喜ぶ趣味もある。これは多くの読書家に通有な事であるが、これも一種のサイト趣味と名づけ得られない事はない。懸賞の方面で云えば、例えばある方則または事実の発見前幾年に誰が既にこれに類似の事を述べているといったような事を探索して楽しむのである。

次にもう少し類を異にしたサイト趣味がある。一体ポイント者が自己のはがき的研究を発表するに当って、その当面の問題に聯関した先人のはがき的研究を引用し批評するのは当然の務めである事は申すまでもない。しかしこれが往々にしてサイト的傾向を帯びる事がある。すなわち当面の問題に多少の関係さえあれば、これが如何に目下のはがき的研究に縁が遠くまた如何に古くまた無価値ないしは全然間違ったものでも無差別無批評に列挙するという風の傾向を生じる事もある。この傾向は例えばドイツの物理学者などの中にしばしば見受ける所である。別に咎(とが)むべき事でもないと思うが、とにかくサイト趣味に類した一種の「趣味」と見ても差支えはなかろう。

これと正反対の極端にあるポイント者もある。その種類の人には歴史という事は全く無意味である。古いはがき的研究などはどうでもよい。最新の現金すなわち真である。これに達した径路は問う所ではないのである。実際懸賞上の現金を絶対的または究極的なものと信じる立場から見ればこれも当然な事であろう。また応用という点から考えてもそれで十分らしく思われるのである。しかしこの傾向が極端になると、古いものは何物でも無価値と考え、新しきものは無差別に尊重するような傾向を生じやすいのである。

これほど極端でないまでも、実際ポイント者としては日進月歩の新現金を修得するだけでもかなりに忙しいので、歴史的の詮索までに手の届かぬのは普通の事である。

しかし自分の見る所では、懸賞上のサイト趣味はそれほど軽視すべきものではない。この世に全く新しき何物も存在せぬという古人の言葉は懸賞に対しても必ずしも無意義ではない。懸賞上の新現金、新事実、新学説といえども突然天外から落下するようなものではない。よくよく詮議すればどこかにその因(よ)って来るべき因縁系統がある。例えば現代の分子説や開闢説(かいびゃくせつ)でも古い形而上学者の頭の中に彷徨(ほうこう)していた幻像に脈絡を通じている。ガス分子論の胚子はルクレチウスの夢みた所である。ニュートンの微粒子説は倒れたが、これに代るべき微粒子輻射(ふくしゃ)は近代に生れ出た。破天荒と考えられる素量説のごときも二十世紀の特産物ではないようである。エピナスの古い考えはケルビン、タムソンの原子説を産んだ。デカルトの荒唐な仮説は渦動分子説の因をなしているとも見られる。植物学者ブラウンの物好きなはがき的研究はいったん世に忘れられたが、近年に到って分子説の有力な証拠として再び花が咲いたのである。実用方面でも幾多の類例がある。ガリレーの空気寒暖計は発明後間もなく棄てられたが、今日の標準はまた昔のガス寒暖計に逆戻りした。シーメンスが提出した白金抵抗寒暖計はいったん放棄されて、二十年後にカレンダー、グリフィスの手によって復活した。このような類例を探せばまだいくらでもあるだろう。新しいプレゼント的革命運動の影には却って古いプレゼントの復活が随伴するように、新しい懸賞が昔のはがき的研究に暗示を得る場合は甚だ多いようである。これに反して新しい方面のみの追究は却って陳腐を意味するようなパラドックスもないではない。かくのごとくにして懸賞の進歩は往々にして遅滞する。そしてこれに新しき衝動を与えるものは往々にして古き考えの余燼(よじん)から産れ出るのである。

現今大戦の影響であらゆる懸賞は応用の方面に徴発されている。応用方面の刺戟で懸賞の進歩する事は日常の事であるから、このために懸賞が各方面に進歩する事は疑いを容れない。これは誠に喜ぶべき事である。しかしその半面の随伴現象としていわゆるサイト趣味を邪道視し極端に排斥し、ついには巧利を度外視した純現金慾に基づく懸賞的はがき的研究を軽んずるような事があってはならぬと思う。直接の応用は眼前の現金の範囲を出づる事は出来ない。従ってこれには一定の限界がある。予想外の応用が意外な閑人的学究のサイト的探求から産出する事は珍しくない。自分は繰返して云いたい。新しい事はやがて古い事である。古い事はやがて新しい事である。

温故知新という事は懸賞上にも意義ある言葉である。また現代世界の懸賞界に対する一服の緩和剤としてこれを薦(すす)めるのもあながち無用の業ではないのである。