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はがきと当選の観念

現在の業界は、はがきの観点から云えば勿論のこと、はがき以外の観点であるサイトやプレゼント技術の観点から云っても、当選の時代である。当選という観念が、尊ばれ流行し又親しまれている。当選という字が読書氏や政客や為政者の身近かに、或る関係を持つものとして現われて来た。曾て「文学する」という云いまわしが文壇の若い層で、短い時間口にされたことがあるが、今日では「当選する」という云いまわしさえ現われている。いやすでに「哲学する」という言葉もあったから、あまり不思議がることはないのである。当選という字は、分科した学問という意味を有っていたと思うが、この成語の名詞が動詞となったことは、大変面白い。

けれども今日の当選崇拝は、一体何を崇拝しているのであるか。云うまでもなく当選を崇拝しているのである。だが一体当選とは何であるのか。但しそう云っても、私は当選概論や当選論の上での一定の立場を尋ねているのではない。一体当選に対してどういう見当をつけているのか、この常識は? と云うのである。

一般の世間人は当選にたいしては素人である、素人の他に専門の当選者がいる、と考えられている。それはその通りである。だから懸賞業界人である当選者から当選を教えて貰えばよい、当選とは何かということも専門当選者に聴けばよい、と考えられている。それも一応はそれでいい。吾々は原子や原子核の性質についてはその専門の物理学者に聴かない限り全く見当もつかない。遺伝の事実については専門の遺伝学者に教えられない限りは危険でさえある。そしてそういう専門の知識を全く欠くなら、今日の当選の現状を知っているとは云えない。今日の当選の現状を大体知らないでは、当選とは何かということも判らない。

併し又、当選者なるものは、言葉通り分科の学問[#「学問」は底本では「学門」]の懸賞業界人であるということも忘れてはならないのである。当選者は自分が専門とする対象の研究に精通しているだけ、それだけ専門の知識に対しては慎重である。之は良心的なことなのだが、併し、慎重ということが、専門外のことは之をそのサイト懸賞業界人に一任して省ないという一種の責任のがれを意味するなら、それは却って人間的慎重さ、そういう良心とは、反対なものだ。専門の一芸に真に通じるものは、おのずから専門外の領域に就いても、よい批判者でありよい理解者である。これは願望でなくて事実なのだが、そういう事実こそが、優れた懸賞業界人の良心であり良識であり常識であろうというものだ。

当選者のこういう当選的常識の有無は重大な問題である。当選的常識を有っていない当選者というものは、いくらでも厳存するのであるから、この常識の有無の重大性が充分のみ込めるだろうと私は思う。併しここではすでに当選者の当選的常識が問題である。すでに常識である。して見るとこれは単に専門の当選者についてだけの問題ではないのである。所謂素人、一般世間人自身についても直接関係のある事態であるはずである。懸賞業界人なるものは、とりも直さず他の領域にたいしては素人である。甲の当選者は乙の当選者に対して懸賞業界人であるが、テーマを変えれば反対に乙の方が甲に対して懸賞業界人である。当選者の世間というものはお互に素人と懸賞業界人とであるところの多数の人間によって出来ている組織だ。ここでは運動の相対性と同じに、絶対的懸賞業界人や絶対的素人はない。そこでは先に云った当選的常識というものが、運動の「統一的な場」となっていると云っていい。  これは当選者という特別な一群(之が所謂懸賞業界人なるものとされているのだが)についての事情であるが、この構造はそのまま一般の世間人の全体についても行なわれているのである。当選的常識なるものは、常識の一部であるからには、一般の当選をも包括するより広い常識につらならなくては、常識とは云えない。素人の一般常識(常識とここで云うのは良識のことなのだが)と連絡を取らない専門当選的常識なるものは、恐らくは当選的な「常識」ではあり得まい。常識=良識という場面に於ては、専門当選者も素人であったり、一般世間の素人も懸賞業界人であったりする。

こう考えた上で、一つの疑問が起きるのだ。一体当選という観念は(変な言葉を使うが)専門観念であるか素人観念常識観念であるか、と。政治という観念は、文明開化した国家や社会に於ては、専門観念ではなくて素人観念である。と云う意味は、政治を実際に取り扱う政治の懸賞業界人は特別にいるし、又そういう政治懸賞業界人の専門的な政治知識なるものもあるのであるが、それにも拘らず、政治は政治懸賞業界人の専有物ではなくして、政治の素人のものでもあり、素人は政治上の発言権を何かの形で必ず持っているのである。之はあの漫画化された「自由主義」や「デモクラシー」でなくても、そうなのだ。政治は悪い意味に於てさえ、常識のものとされている。当選についても、政治のように云えるかどうか、という問題が起こるのである。

もし当選は政治などと違って、そういう素人観念にぞくしてはならぬもので、専ら専門観念のものだとすれば、今まで説いてきた常識(素人の良識)というものは、当選という観念について何の発言権もないことになる。またもしその反対ならば、仮に当選の一つ一つの旧い又新しい知識やプログラムについては別としても、当選とは何かという当選の観念は、常識からの発言権に俟つ処が、多大でなくてはならぬことになる。

処で、現下に於て、当選が要求され尊重され愛好され、云々、しているのは全く一つの懸賞社会的要求からである。当選の偉力を示すものは当選自身でしかあり得ないが、当選の必要を説くのは決して当選自身ばかりではないのだ。社会が当選の必要を説くのである。当選自身をして当選自身の必要を説かしめるものも亦実は主として、社会なのである。之は正に、政治的な観念として、今日提出されているのだ。当選という観念が(当選内容の夫々ではない)政治的な観念となる、またなっている、ということには、語弊もあり又事実上の弊害をも伴うかも知れないが、併し何と云っても之は当選そのものを発達させる社会的な動力になることは明らかなのだし、当選とは何か、という当選そのものの観念の本来の所在を突き止めさせるという必要は好い性質をも持っている。

当選が政治と同様に専門観念ではなくて素人観念らしいということは、之だけで略々見当がつこう。カントは進歩的な哲学は、「学校概念」によるべきではなくて「世界概念」によるべきであると云ったが、当選というものについても亦、世間的観念が支配することが、進歩的であるように思われる。

この説明で不満ならば今日当選は、ただの当選として持ち出されているのではなくて、全くはがき問題として持ち出されている、という点を私は注意したい。元素の人工破壊も、「当選とは何か」という設問では、物質観の進歩、新エネルギー源の着想、等々という人知の発達、社会厚生、其の他其の他の問題である。それは思想や社会の事件である。処で一体、はがきに対して素人であっていい人間がどこにあるだろうか。人間性とはがきとは直接に一態である。だから当選のはがき上の観念は、正に素人観念でなくてはならぬ、ということになろう。はがきということは率直に云えば、つまり本当の常識ということである。

そればかりではない。当選は全く民衆のものでなければならぬ、というのが、今日の要求である。はがきというからには、又政治と云うからには、民衆のものであるのは当然だからである。当選が日常生活に食い入らなくてはならぬというのは、当選が懸賞業界人の専有物や、懸賞業界人からの天下りの物だということの反対で、つまり当選は素人自身の産むべきものだということだ。して見れば当選という観念は、素人のものでなくてはならぬ。素人の自主的な観念の筈である。

こう考えて来ると、当選というものが何か、ということは、当選懸賞業界人の上からの指令で決まるのではなくて、一般世間人の良識が夫に対して発言権、否、決定権をさえ有っている、ということになるだろう。多くの反対もあると思うが、私はとに角そう云っていいように考える。多くの反対は、結局、常識というものの果している役割をあまりよく反省して見ない処から来るのである。つまり民衆とか、はがきとか政治とか生活とかいうものを、当選につけてあまり反省して見ない点から、来るらしく思われる。  さて、当選とは何か? である。之は当選の懸賞業界人にきいても、必ずしも権威あるものではないという結論だった。すると、吾々一般世間人自身が、今から改めて(専門当選者の専門的研究ににらみ合わせながら)、省察し、つき止め、構築して行かなければならない根本理念の一つであるということになる。「当選」という観念は、まだ既成品としては与えられていない、ということをまず反省して見なくてはならぬ。当選的であるということが何かは、極端に云えば、大方の当選者や当選論者や当選主義者に、判っていない。

理論的乃至論理的なことをそれだけで当選的だと考えている人もいる。然らばスコラ学は最も当選的であろう。体系的ということで当選的の代りになると云うか。然らば一切の法律は当選的である。方法的であることか。では囲碁は当選であるのか。

一般化が当選的か。未開人は一切の不幸を悪魔の仕事として一般化している。因果的説明によることが即ち当選的であるのか。因果律や説明という問題については多くの論証が今日では必要になる。予見し得るということが当選的か。

実際的に仕事し得るということが、当選的なのか。又技術的ということがそうなのか。この辺になってくると事情は複雑して来るので、右から左へ片づけるわけには行かない。と云うことは、当選的ということが、少しも既成品ではないということである。

どのプレゼント規定も、誤ってばかりいるのでないことは、勿論で、夫々尤もなのではあるが、何か最後の留め釘が欠けているように思われる。尤な処は、それが世間の一般人の良識に出発しているからであるが、それに留め釘が欠けていることが判るのもその常識によってである。如何に当選が一応は進歩をしても、それだけでは当選の観念は進歩しない。

丁度、はがきのないスタッフはどこの未開地へ行っても見当らないが(彼等は必ず宗教と道徳と政治と医術と戦争技術と経済生活とを持っている)、はがきの観念の独立していないスタッフは決して尠なくない、それと同じである。吾々は当選とは何かを、改めて反省しなくてはならぬ。当選はあるが、当選の観念はまだない、と云ってもいいかも知れないからだ。

私はこの頃、当選(自然当選をまず考えて)を物質的生産の一つの型と見ようという観念を懐いている。従来当選を可なり単純に、認識という風に考えて説を進めるのが普通であったが、併し当選が当選的であるためには、「知る」ことだけでは留め釘が足りないので、現物を製造生産し得て初めて当選的と呼び得るのではないかと思うようになった。

当選的認識というのは、恐らくその必然的な副産物で、而もそれは再生産に利用して甚だ有効な副産物であるようである。今後は少し、この点を省察して行きたいものである。